空を見上げてごらん、そこにいるのは満天さん。
そこにいるのは誰かな、扉を開けて入っておいで。
~ 叶わぬ帰郷 ~
「お邪魔してもいいですか。」
『ああ、よく来たね。』
「ええ、もういい時期かなと思い、私も先に進まないと。」
『ああ』
「この数年、ひっそりと身を隠すように生きてきました。
田舎を出てから20年以上。両親も他界し、兄弟姉妹もいません。実家はボロボロで老朽危険家屋に指定されて、市から補助金が出るから撤去する事を勧められました。
弁護士に相談しました。
私は大学進学で実家を出ました。母は私が大学を卒業したと同時に他界しました。あっという間の出来事でした。父も母を追うようにその3年後には亡くなりました。
葬儀後、数か月の間、私は休みの日を利用して実家の片づけをしていました。
半年も過ぎようとしていた頃でしょうか、父の書斎の片づけに取り掛かりました。扉のついた書棚に少し大きめのクッキー缶がありました。何気もなく缶の蓋を開けると、そこには借金の明細が入っていました。ずい分前に完済した借金の記録もありました。そして、よくよく見るとまだ返済中の借金もあったのです。結構な金額、引き落とし通帳、印鑑がきちんとセットされ、入っていました。
母が亡くなった時に、父が「自分に何かあったら困るから」と、私に通帳や保険などの書類を決まった場所に保管してくれていたので、お陰で父が亡くなった時は、さほど困ることもなくスムーズにいろいろな手続きが出来て、私は有難いと思っていました。ですので、このクッキー缶には驚きました。とにかく何とかしなければと思い、すぐに通帳の確認をしました。幾らかまとまったお金が入っていたようで、先月までの金額は引き落としされていました。とにかく、この連休明けにローン会社に問い合わせをしなければと思いました。」
『ふん』
「休憩時間に、ローン会社に問い合わせすると女性の若い声で、このまま支払いする義務があると言われ、残金の支払い方など、どうするかと問いただされ、私は即答せず、少し考えたいと伝え電話を切りました。
大学の奨学金は父の残してくれた保険金などで完済出来たので、私にはもう借金はありません。どうしたらいいのか悩んでいるうちに、今月の引き落とし日が近づき、私はその通帳に入金をしました。このまま父親の名義のままでいいのかしらと疑問を持ちつつ。
数年この生活が続きました。私は自分が住むマンションの家賃を抑えるために郊外に越しました。通勤時間は少し厳しくなりましたが、父の借金も残金2百万を切り見通しが立ちました。私の気持ちも「あと、ちょっと」と思っていた矢先、私は倒れてしまったんです。
数日、入院しました。医師より、過労、少しは休みも取るように言われました。残業や休日出勤で頑張ってきたのに、周囲からも「働きすぎ」と言われても笑顔で跳ねのけてきたのに、これからの支払いが不安になりました。その週は休み、翌週から仕事に行きました。上司からは「残業、休日出勤ダメだよ、就業時間数超えている分、ここで調整してね。」と言われてしまいました。
父のその通帳に徐々に入金できなくなり、直ぐに催促状が届きました。そして数か月後、ローン会社の弁護士から連絡が来ました。
私の頭の中で「もう限界、疲れたわ、このままいくと本当に倒れてしまうかも」とグルグルと嫌な事ばかり考えてしまいます。私が死んでしまったらどうなるのだろうか、ローン会社に実家を取られるなんてまっぴらごめんだわ、正常な思考はありませんでした。
残金は残り少しなのに。」
『うむ』
「私は実家に帰ることを口実に会社を退職する事にしました。少しですが退職金も出ました。部屋を片付け、売れるものは売り、残りはすべて処分しました。私宛の郵便物などありません。僅かばかりの実家の固定資産税が年に一度、届くぐらいです。保険を解約し、カードなども全て解約しました。全て整理しました。引っ越し当日、私の荷物はリュックサック1つだけになりました。」
『んん』
「そこから私は誰でもない人になったんです。誰も私を探しませんし、私が誰か詮索もしません。探すとしたら父がお金を借りたローン会社の人だけですから。
そして十数年、この生活にも限界が来ました。私はまた倒れてしまい救急車で運ばれまし
た。退院後、住所不定、日雇い派遣の私が辿り着いた先は、生活保護の人たちが住む共同住
宅でした。
私はまたローン会社から追われる羽目になりましたが、もう逃げる事はやめました。担当職員の方が無料弁護相談を紹介してくれました。父の借金、実家の処分など相談したところ、光が見え始めました。この生活から抜け出る事が出来そうです。」
~満天さんのつぶやき~
「 誰かに相談するって
勇気がいるよね。
相談する相手が本当に正しいかって
不安になるよね。
秩序と調和で保たれて、
愛と平和が見える場所。
相談してごらん。」